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河井寛次郎と民藝の仲間たち

2024.9.10(火)〜10.31(木)

 当館所蔵品より、河井寛次郎の作品初期から晩年まで19点と「民藝の仲間たち」として寺尾作次郎7点、金城次郎3点、濱田庄司1点、バーナード・リーチ1点、新垣栄三郎1点、他8点の陶芸作品、並びに棟方志功肉筆画、稲垣稔次郎版画の計約43点を展示いたします。今回は河井及び民藝周辺の作家に焦点をあてることで、民藝における作家性と地域性について再考する機会になれば幸いです。

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ストーリー

 河井寛次郎(1890−1966)はわが国の近代工芸を代表する陶芸家です。1920年鐘渓窯で李朝、宋、元、明の陶磁器を再現し、年若くして陶芸の天才と賞賛されました。しかし河井は、古作品を追うことに疑問を抱き、1925年柳宗悦の日用雑器の中にある美しさ「用の美」の主張に共鳴して、濱田庄司らと民藝運動を起こしました。全国の民窯をくまなく踏破し、埋もれた各窯に脚光をあて収集し、1936年(昭和11年)に日本民藝館を設立しました。

 戦後、晩年の河井は民藝の枠を超えて、自由奔放な造形、絞り描き、泥刷毛目、打ち薬三彩などの技法を用いて多彩な創作を試みました。

 古作の研究に始まり、民藝から掬い上げた感動を個の表現へと昇華させた河井は「すべてのものは自分の表現」という彼の言葉の通り、独自の道を突き進みました。没後半世紀以上を経た今もなお、河井の造形の力強さと色彩の鮮烈さ、そして自由な創造の精神は私たちを魅了し続けています。

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河井寛次郎「青華六方瓶」1923

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河井寛次郎「辰砂鉄薬花扁壷」1953

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寺尾作次郎 幼女風俗文鉢 1964

寺尾作次郎 1898-1984 

福岡生まれ、16歳の時、洋画家和田三造の内弟子として図案を学び、その後、京都の鐘渓窯で河合寛次郎に師事。1941年、鹿児島県工業試験場窯業部の部長に就任した。作品は大らかで、形、色、文様に独自の味わいがある。かつて、河井に「大海」さんと呼ばれて可愛がられていた。

濱田庄司 1894-1978

神奈川県川崎市に生まれ。東京工業高等学校窯業科を卒業後、京都市立陶芸試験場に入所した。そこで先輩の河井寛次郎を知り、一緒に釉薬の研究をおこなった。20 歳の時リーチの誘いを受けて英国へ同行し、セント・アイヴスの築窯を手伝い、約 3 年間作陶に従事した。 大正 14 年柳宗悦、河井寛次郎らと民芸運動を起こした。 濱田の作品の最も優れた点はその造形にある。手轆轤を使ったシンプルな成形と 1300 度の窯に荒塩を投げ入れる独自の塩釉技法や晩年の釉薬の流れ描きによる透明感のある模様は大胆かつ見事である。 1955 年第 1 回重要無形文化財保持者に認定された。 濱田は終始、日本民藝運動を支え続けた。

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濱田庄司 黒釉錆流花瓶 1973

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金城次郎 魚文大皿 1970

金城次郎 1912-2004

1912年(大正元年)沖縄に生まれ、12歳の時壺屋の窯元(新垣永徳)に弟子入りした。 濱田庄司に見い出され、国画会で活躍し、沖縄陶芸界のリーダーとなった。作品は造形が力強く、魚や海老などの文様の線刻がいかにも豪快である。壺屋の名声を高め、1985年重要無形文化財保持者の指定を受けた。

バーナード・リーチ 1887-1979

リーチは香港に生まれ、幼児期を祖父母と京都でおくる。ロンドン美術学校で絵を学び、22歳の時来日した。白樺派の文人画家との交流を通じて、柳宗悦を知る。33歳の時、濱田庄司と英国セント・アイヴスに登り窯を築いた。その後「用の美」を説く柳の主張を支持し、母国や海外に民芸運動を熱心に紹介した。 リーチの作品の最大の特徴はその絵付にある。英国の堅実さと日本の謙虚さが融合して温和な詩情が溢れ、和の雰囲気をもった生活の香りが漂っている。 彼は東西両用の文化の架け橋のために一生を捧げた。

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バーナード・リーチ 染付花瓶 1955

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