海老原喜之助 岩下三四 大嵩禮造 素描展
三者三様の個性的な表現
海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日 - 1970年9月19日)
1904年鹿児島市に生まれる、18歳で渡仏。藤田嗣治の薫陶を受け、パリで次代の画壇を担う画家として注目される
藤田の天才的素描力の影響を受けた海老原の画業はデッサンから始まったと言って過言ではないだろう。
海老原は恩師の名を辱めないようにと生涯素描癖に取りつかれた。
海老原のデッサンは何千枚にも上ると言われる。
油彩画にも匹敵する海老原のデッサンをご覧ください。
大嵩 禮造(おおたけ れいぞう1934年-2003年1月7日)
鹿児島県鹿児島市出身。1954年鹿児島県立甲南高等学校卒業。高校では鮫島梓が指導する美術部に所属。高校2年生で南日本美術展に初入選。
1958年鹿児島大学教育学部美術科卒業。1959年の第14回南日本美術展で「花の碑」が県知事賞(最高賞)を受賞。初の鹿児島県海外美術派遣留学生となり翌年渡仏しパリ留学。審査委員長海老原喜之助の紹介状を持って藤田嗣治のもとを訪ね、時代の潮流でなやむ姿を目の当たりにして、巨匠がこうなのだから自分は自分なりの絵を描くしかないと感じる。
1962年から独立展にも出品し、1973年に独立奨励賞受賞。その後も入選・入賞を重ねて、1988年の第56回独立展で独立賞受賞。1989年に独立美術協会会員となる。その他、鹿児島芸術文化奨励賞などを受賞。
大学卒業後高校教諭を経て、1965年に母校鹿児島大学に指導者として招かれ、1977年教授に就任。1979年には文部省在外研究員として再びパリ留学。1992年から1999年まで南日本美術展審査員。2000年に鹿児島大学を退官し名誉教授。2002年6月鹿児島市立美術館館長に就任。10月に入院し翌年1月7日に脳腫瘍により逝去。
岩下 三四
戦前は東京にあって熊岡美彦の絵画道場の若き師範代として声明を馳せる。
第2次世界大戦後は鹿児島大学教授として後進の育成にあたりつつ、東光展と日展を舞台に活躍する。
桜島、琉球踊りなど郷土の風景や芸能をテーマに、コロリストの天性を発揮して芳醇な世界を展開している。