『鈴木治と久保満義−前衛陶芸二人展』 2009.10.6(火) - 11.29(日)

 

開館 25 周年最終企画といたしまして、「鈴木治と久保満義−前衛陶芸二人展」を開催いたします。

鈴木治は現代陶芸の第一人者といわれ、鹿児島陶芸展の審査委員長を長く務められました。鹿児島の陶芸界に及ぼした影響は多大なものがあります。また、久保満義は鹿児島における、現代陶芸の第一人者といっても過言ではありません。
この子弟関係ともいえる二人の作品を通して、現代の前衛陶芸の有り方をご提案いたします。

是非ご来館の上、ご高覧下さいますようお願いいたします。

展示作品

鈴木治 「童子像」「埴輪」「泥象ー直」「反る木」など約 30 点

久保満義 「遷」「嶂 82- T」「未踏」「兆 94 」など約 24 点

観覧料 大人 500 円 高・大学生 300 円 小・中学生 200 円
*常設展も観覧できます

 

 


鈴木治 汗馬 1996

久保満義 未踏 1988


鈴木治・久保満義前衛陶芸二人展に思う 館長・児玉利武


二人は純粋である。
何の外連もなく、ひたすら造形を追求している。
二人を美術館で引き合わせたのは確か平成 2 年 4 月のことだった。
それは鈴木が鹿児島陶芸展の審査に来鹿した時だった。

鈴木は当美術館の自然をこよなく愛でて、この時期には毎年訪れるのが常であった。
そこには忙しいなか、自然木に座って静かに構想を練る彼の姿があった。
当時久保は白い石膏のような肌合いを持った、未踏シリーズの真っただ中にあった。
私が最も敬愛する画家、大嵩禮造の碑シリーズとグラスボックスシリーズの作品に重ね合わせて、久保の資質の高さに大きな期待を寄せていた。
作品を見た鈴木は次のように言った。
「これだけの造形ができるなら、もう何も言うことは無い。ただ焼物にしかない肌合いを心掛けてほしい」と。
それから数年後に久保は薩摩の龍門司焼にしかない鮫肌手の肌合いをもつた兆シリーズを発表したが、私は鈴木のアドバイスが生かされた結果であると信じている。
鈴木がライフワークともいえる信楽土の泥象シリーズを発表したのが 1965 年 39 歳の時であり、またおそらく久保のライフワークになるであろう鮫肌手の作品を発表したのも 1994 年 39 歳の時である。
何か因縁めいたものを感じる。

二人には当然のことながら類似点と相違点がある。
古来日本の陶芸は茶碗・皿・注器・壺など『使う陶』に用の美を見出した。
鈴木は戦後間もなく、陶器の口を閉じたらもっと自由な造形が出来るのではないかと考えて作陶した。 それが『観る陶』飾る陶である。
人々はそれをオブジェと呼んだ。
次に考えたのが『読む陶』である。それは考える陶、想像する陶でもある。
それこそが二人が目指している新しい陶芸、すなわち前衛陶芸である。
更に鈴木は自分の心を詩歌に詠むように情緒的な文学の世界まで作品を高めることになる。それが『詠む陶』である。
詠む陶を今回の展示作品の中に求めると汗馬と、反る木が挙げられる。
汗馬は 1997 年に伊勢丹美術館で開催された鈴木治展のメインを飾った、記念すべき作品である。
千里を駆け抜けた汗馬が上を向いて力強く嘶く姿は、見る私達を圧倒する。それはイサム・野口の彫刻に刺激を受けた鈴木が新しい日本の陶芸、前衛陶芸のパイオニアとして、先頭に立って 50 年間駆け抜けた鈴木自身の姿に重ね合わせ、その高揚した気持ちを詠い上げた作品といえる。
もう一つの作品は反る木である。 1998 年壺中居で催された鈴木最後の個展『一本の木』に出品された一点である。
それは 50 年余りの土いじりの末にたどり着いた土の形、いわゆる鈴木の泥象の到達点ではなかろうか。
彼のいつも通る散歩道に一本の繁った栗の木が立っていた。毎年その枝が切り落されて樹勢が弱まり、僅かな葉だけになってしまった。
そして最後には朽ちた一本の木だけが残された。
自分の一生と重ね合わせて、深い哀愁の心を詠んだ作品ではなかろうか。正しく『詠む陶』である。
久保の目指す陶芸もおそらく、そのような世界であろう。
かつて美術館を訪れた鈴木は、私の書いた説明板に『その作品は土偶、馬や鳥などの動物、雲や風などの自然現象をテーマに、抽象的に表現したものが多い』とあるのを見て、笑いながら「抽象的表現を文学的表現に変えてほしい」と言ったことを思い出す。 

二人の相違点と言えば、その作陶方法ではなかろうか。
鈴木の作陶法は彼が述べているように「一握りの土を手のひらで丸めたり展ばしたり、そんな仕事を繰り返している内にその土の形が、色んな形に見えてくる」それを鈴木は掌上泥象と名付けた。
その形をエスキースにして様々な作品が生まれ、夫々に主観的名称が与えられていく。従って彼の作品の形は限りなく多様性に富む。
鈴木の作陶法を見ていると頭と手が一体になり、頭が手を動かし、手が頭に刺激を与えている様に、私には思えてならない。

それとは、対照的に久保は言葉から作陶に入る。
例えば未踏と言う抽象的な言葉が脳裏に浮んだら、そのイメージを作品に表現しようとするのである。未踏シリーズは誰も踏み込んだことの無い山、深山幽谷、積雪に覆われた山、雲の棚引いている山。
霊峰あり、泰然とした山あり、剣のように鋭い山あり、今にも崩れそうな山あり、今にも踊りだしそうな楽しい山もある。 
山のイメージは限りない。そのイメージは観る者により更に広がる。

未踏に続いて、 1994 年に発表された鮫肌手の兆シリーズは、これまた抽象的な言葉で種子から発芽する兆がある、何かが起こりそうな予感がするなど、極めて主観的な発想である。
2001 年から始まった羽化シリーズの羽化の意は昆虫が蛹から脱皮するという、誰もが知る客観的な言葉である。
誰もが知る言葉にはある固定観念が伴うので、どうしても多様性に乏しくなる。
最初の 3 年間の作品には、豊満な女体に託された久保のイメージが生き生きと表現され、魅力的である。
一刻も早く脱皮して、大きく羽ばたいてほしいと願っている。

 


久保満義氏によるギャラリートークを開催します。 10/18・11/15

  久保満義氏による作品解説等、前衛陶芸が、より身近になることと思います。
  奮って、ご参加いただけますよう、お願い申し上げます。
  
        *ギャラリートークは終了しました。当日の様子はこちらをクリックして下さい。

  第 1 回   10 月 18 日 ( 日 )  午後 2 時より (終了しました)
  第 2 回   11 月 15 日 ( 日 )  午後 2 時より (終了しました)

  講 師   久保満義氏(鹿児島県立薩南工業高校教諭)
         (日展会友・現代工芸美術家協会本会員評議員) 

  * 久保氏から、ギャラリートークの参加者には「ささやかなプレゼント」があります。



作家と作品のご紹介  *久保満義作品解説を追加しました。10/30
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