2016.1.5(火)〜3.27(日) 『大嵩禮造・日置誠師弟展―南国的風土の中に生まれた白の系譜―


大嵩禮造・回帰絆

大嵩禮造 回帰・絆(2000)

 この度、児玉美術館では創立30周年企画として『大嵩禮造・日置誠師弟展―南国的風土の中に生まれた白の系譜―』を開催致します。

  大嵩禮造さんと当美術館との関わりは深く、創設当時から館の運営や美術品の選定などに関して多くの助言を頂き、その作品は収蔵品の中核になっています。 また、日置誠さんは学生時代から毎年夏休みに美術館公園で開催される『森林浴と子供スケッチ大会』の絵画指導に参加され、大嵩亡き後はその会を主宰して頂いています。 お二人だけの師弟展は初めてのことです。禮造さんよかったですね。

  貴方があの寒い日に旅立たれてからもう13年になります。貴方はクリマ(風土)と云う言葉をよく使いましたね。

日置誠・Heaven

日置誠 Heaven(2014)

オスロでムンクの絵を観た時も「クリマが人を生み、人を育てる。クリマそのものが芸術である」と興奮覚めやらぬ感じの手紙を下さいましたね。 愛弟子の日置さんは「絵描きは描き続けなきゃいけないんだよ。鹿児島で描き続けることに意味があるんだ」と云う貴方の言葉を大切にして、貴方と同じように薩摩の南国的風土の中にしっかりと腰を据えて描き続け、今では鹿児島になくてはならない画家に成長して居られます。 本展の副題―南国的風土の中に生まれた白の系譜―は、貴方が南国的風土を表現するには、対極としての冷たさを知ることが必要との視点から、一貫して白色に拘り、乾いた世界を追求されたこと。また、日置さんが瓦礫の中に白い包帯で巻かれた人物や物体を配して、存在の問題に強い意志を持って挑戦し続けているからです。更に言えば、貴方の師・海老原喜之助さんは若い滞佛時代に白と青の雪景シリーズを描いて名声を博し、またその師・藤田嗣治さんの描く真珠のように白い女性の肌にも繋がります。

  では、展覧会に出品された作品を見てみましょう。二つの展示室にお二人の50号〜200号の油彩画40点と日置さんの立体作品8点が展示されています。碑、グラスボックス、ポートレート、回帰の4シリーズの大作が年次的に並べられた大嵩作品の前に立つと、その堂々たる新鮮さに圧倒されます。その源流にあるものは偏執的とも言える白への拘り、透明感のある青色と堅固で鋭い画面の構成です。

また、日置さんの初期の作品、Red Rain、Crash、Movingには大嵩の幾何学的抽象画のような鋭さがあり、その後の物体に白い包帯が巻かれた作品と立体作品には物の存在感があります。覚醒の時、Heaaven、叫びなど、最近の作品に描かれている瓦礫や白い包帯の巻かれた人物には、絵画としての透明感と社会性が色濃く表現されている様です。

 最後になりましたが、日置さんおめでとうございます。 今回の展覧会の開催に当たって、献身的なご協力を頂き、頭の下がる思いです。心から御礼申し上げます。

理事長 児玉利武

大嵩禮造と日置誠 ―桜島の雪と包帯の白― 美術評論家 林 紀一郎

 大嵩禮造は、桜島の煌めきを己の絵画風土に輝かせ、鹿児島湾の海に揺蕩う青を、その風土の土壌に染みこませた。彼は故郷を愛した。だれよりも……。妻子を、弟子たちを、そして酒を……。だが画室では、人知れずキャンバスを前に思案し、自問自答し葛藤する。やがて"孤独"という相棒がやってきて、ようやく一枚の絵が出来上がるのだ。<孤独なしには、なにも生まれない>と語ったピカソの言葉どおりに……。
 「花」「碑」「グラスボックス」「堕ちる」「祭」「回帰」「対話」「黙」「絆」、etc。作品の一つ一つが、大嵩禮造の心象風景から浮かび上がったものである。もう一度改めて画題の一つ一つを眺めてみよう。彼の好きな青と白は、「碑」「グラスボックス」「絆」「回帰」に、赤や黄の隙間を縫って現れる。色調もさることながら、大嵩禮造が意図するものは堅確な画面構成=コンポジションである。筆触や色彩が野放図に走り回るアンフォルメルは、彼の最も嫌いな手法なのだ。勇気を持ちなにごとにも"決まり"を重んじる薩摩隼人のDNAを享け継いでいるのかもしれない。大嵩禮造が冥界に旅立って早12年余りの月日が流れた。淋しがりやの大嵩禮造だったが、存命ならば傘寿を迎えているはず。その人柄を愛して、収集・展示、また弟子の日置誠の作品を併せて、創立30周年展を企画した児玉美術館に心からの敬意と祝福を申し上げたい。
 さて、大嵩禮造に師事した日置誠の絵画を眺めてみよう。包帯を巻いた物体(もの)が地面に転がっている。いや、ただ置いて"在"る。やがて人間の肉体のようなフォルムに変容する。ひとの誕生の予感だろうか? 青春時代、欧米を旅した折には、フランスやアメリカの風景を描いたときもあったが、いつしかものの存在の有無を思考し、自らの絵画のテーマとするに至った。すでに中学・高校時代にニーチェの"実存哲学"、サルトルの"存在と無"、カミュの"不条理"の思想に興味を抱く早熟な少年だったようである。師・大嵩禮造の絵画のありようとは異次元のコンセプチャルな絵画へと転じていくのだ。師はどう思っただろう。その異次元の絵画に描かれたのが、前述の"包帯(布)"である。
 包帯は本来、傷や腫れものをおおい、菌の侵入を防ぐもの、心の傷さえおおい、保護する。日置誠は少年時代、難病で膝を患い、片足を石膏入りのギブスで固定し、行動の自由を奪われたことがある。考えてみよう。行動の自由を奪い、精神を拘束する包帯であるが半面、傷ついた肉体や精神を手当てし、保護するものではないか。包帯はいずれにせよ、この矛盾の自己同一性を内包しながら、さまざまな状況の中で、人物像やオブジェや、死体に変容する。そしてしたたかに存在する。日置誠は幻想やシュルレアリスムや抽象絵画、あるいは具体的絵画とは一切関わりなく、自分の(自画像)絵画を描くだけである。
 さて、今まで日置誠の仕事について語ってきたけれども、私には今、ひそかに抱いている夢がある。いつしか日置誠が彼自信の包帯を脱いで、自らの裸身を人目にさらす時がくるのではないか、と。

作家と作品の紹介

このページのコンテンツには、Adobe Flash Player の最新バージョンが必要です。

Adobe Flash Player を取得