2014.10.15(水)〜12.10(水) 『河井寛次郎と薩摩の民窯

 民芸運動を推進した近代陶芸の巨匠・河井寛次郎の作品19点と薩摩の民窯・龍門司焼、苗代川焼、能野焼(よきのやき)に加えて近代薩摩の名工・初代長太郎の作品約40点を一堂に展示しました。

 この展覧会が河井寛次郎と民芸(民衆的工芸)の関係、民芸と薩摩の民窯の接点、河井と初代長太郎の共通点などについて考える機会になれば幸甚です。

展示作品 河井寛次郎「象嵌黄鉢」「草花図扁壷」「打薬三彩手壺」ほか約16点 、龍門司焼7点 苗代川焼7点 能野焼7点 初代長太郎7点

観覧料  一般500円 高・大学生300円 小・中学生200円
(常設展もご覧いただけます。)

展示風景1
展示風景2


河井寛次郎と薩摩の民窯展によせて

 河井寛次郎はわが国の近代民芸を代表する陶芸家です。陶歴は東京高等工業学校窯業科を卒業後、京都陶磁試験場で釉薬の研究に携わり、1920年独立して鐘渓窯(しょうけいよう)で作陶を始めました。身に付けた高度の手法を用いて李朝、宋、元、明の陶磁器を再現し、年若くして陶芸の天才と称賛されました。

 しかし河井は古作品を追うことに疑問を抱き、1925年柳宗悦の無名の陶工達の作った日用雑器の中にある、力強い素朴な美しさ「用の美」の主張に共鳴して、浜田庄司と民芸運動を起こしました。日本各地の衰退しつつあった窯を巡歴し、調査、保存、再評価に努め、その素晴らしさを世に発表しました。

 1933年苗代川と龍門司を訪れた柳、河井、浜田の一行は民芸の里と呼び、口を極めて激賞しています。

 戦後、晩年は自由奔放な造形、絞り描き、泥刷毛目、打ち薬三彩などの技法を用いて多彩な創作を試みました。

 溢れるような才能とそれを裏付ける幅広い技術を身に付け、一つ所に留まることなく常に新しい表現を求め続けました。

 薩摩古陶器は16世紀末の文禄、慶長の役に朝鮮から連れて来られた陶工達によって創められました。優美華麗な白薩摩焼と質実剛健な黒薩摩焼に大別されます。白物(しろもん)は藩主好みの茶陶などの上手物、黒物(くろもん)は庶民的な日用雑器が作られました。それらは堅野系、苗代川系、龍門司系薩摩焼として脈々と現代に継承されています。

 この展覧会は薩摩の黒物を作る苗代川焼、龍門司焼、能野焼の民窯に焦点を合わせました。

苗代川焼

 苗代川焼は串木野の島平(しまびら)に上陸した40余名の朝鮮の陶工達が1603年指導者の朴平意に従って苗代川に移動し、元屋敷窯、堂平窯(どぴらがま)を創めました。1764年藩御用の御定式窯(ごじょうしきがま)と民窯の打通窯(うっとおしがま)が開かれ、現在の苗代川焼の基盤になりました。前者は幕末に朴正官と12代沈壽官、二人の名工が登場して海外でも名声を博し、後者は1933年当地を訪れた寛次郎ら民芸運動の面々に、素朴で逞しく如何にも男性的な苗代川の黒物と陶工達の生き方が大きな感動を与えました。

 その頃の苗代川には白薩摩の個人窯数軒と黒薩摩の共同窯4つがあり、共同窯には窯主がいて各々5〜6人の窯元が利用していました。

 陶工の父を手伝っていた14歳の若き鮫島佐太郎は民芸の観点から高い評価をうけて、自信と誇りを持ったことでしょう。佐太郎は1953年にアメリカグッドデザイン世界民族展において1等賞を受賞し、1969年に苗代川民陶館を設立しました。

 陶工達は高麗神を祭る玉山神社を建立し、母国への思慕の念と先人としての誇りを忘れませんでした。

 市来神之川に上陸した10余名の陶工の一人である名工・金海は島津義弘公に命じられて、帖佐と加治木に藩主専用の宇都窯と御里窯を築き、また島平に上陸していた卞芳仲(べんほうちゅう)と何芳珍(かほうちん)は民窯の八日町窯、龍口坂窯、吉原窯を創めました。

龍門司焼

龍門司窯は1688年に開窯され、芳仲の後継者・山元碗右衛門が龍門司焼の陶祖になり、爾後約三百年にわたり窯の煙を上げ続けています。その間、川原家から芳工、芳寿、芳林、芳平、芳光、芳次などの優れた陶工を輩出しました。   

 龍門司では初期から胎土に化粧土や黒釉、飴釉、鉄砂釉、白釉、緑釉などの天然釉を生掛けして、主に日用雑器を焼いていましたが、名工たちは龍門司三彩、 鮫肌手、玉流し、芳工赤など世に誇れる独特の技法を確立しました。 その作品は優美で多彩な、如何にも女性的な龍門司の黒物です。
 民芸運動の一行が当地を訪れたのは1933年で、父の川原芳次71歳、軍次31歳の時です。その頃の龍門司窯は御多分に漏れず他の民窯と同じく衰退していましたが、4〜5軒の窯元が芳次を中心に伝統的作陶技術に誇りを持って、共同窯で生産を続けていました。

 戦後、川原軍次は龍門司の若い陶工たちを指導して、その精神的支柱となり、1964年に三彩の県無形文化財技術保持者に指定されました。

能野焼

 能野焼は18世紀初めに苗代川焼の影響を受けて、種子島の能野で作られた焼き締めの焼き物です。陶土に鉄分を含んでいるので赤銅色をしているものが多く、主に種子壺、徳利や水甕などの日用雑器が作られていました。19世紀に入ると、花器、茶壺などに共釉や釉彩の施された上手物が時として見られるようになります。20世紀の初めには島外から安い陶磁器が大量にもたらされて、廃窯に追い込まれました。

 能野焼は堅牢で素朴さを特徴とし、戦後に高い評価を受けて、幻の焼物と呼ばれています。

初代長太郎

 初代長太郎は近代薩摩焼の第一人者です。旧薩摩藩主・忠義公の時代に島津家のお庭焼の絵師として勤めた後、1899年谷山小松原に庶民的な黒薩摩焼の窯を創始しました。長太郎は陶質が脆く、外観の華麗さを競う薩摩焼ではなく、丈夫で品格のある古薩摩焼の再現に正面から取り組み、適した陶土を求めて自ら捜し歩き、釉薬の研究に寸暇を惜しんで没頭しました。完成した漆のような黒釉、深みのある長太郎釉、鮮やかな辰砂釉を施して焼き上げ、遂に彼の目指した古帖佐焼に比肩する堅牢で独特の雅趣のある作品が生まれました。洋画家の黒田清輝がその独創性を認めて1920年長太郎焼と命名し、1923年東京で初めての個展を開いて名声を博しました。

 長太郎は練り物、彫刻や書画にも長じ、彼の作る日用雑器には全く手抜きがなく、土の温かみと形に緊張感があります。陶芸に対する真摯な姿勢は河井寛次郎と重なります。

 

河井寛次郎1
  河井寛次郎 辰砂鉄薬花扁壺

 

 

 

苗代川
苗代川 青海波指頭文耳付仏花器

龍門司
   龍門司 黒飴釉窯変花生

能野
     能野 蘇鉄形花生

長太郎
    初代長太郎 牡丹窯変壺

作品のご紹介

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