2012.6.2(土) - 7.1(日) 『古琉球焼と民芸の接点


新緑の美しい季節となりました。

当美術館では初めての展示となる、古琉球焼の作品を一堂に会して「古琉球焼と民芸の接点」を開催いたします。

14世紀から16世紀にかけて、大交易時代、中国・東南アジア・日本の中心に位置する琉球王国は、貿易の中継地として多くの文物が集まり、特に陶磁器は目を見張るものがありました。

今回はその時代の優れた作品と、いち早く沖縄の焼物に注目した民芸の作家たちの作品を展示しその関わりや影響を探ります。

展示作品  

古琉球焼 50点

河井寛次郎「草花図大壺」
浜田庄司「黒釉錆流花瓶」
金城次郎「魚文抱瓶」
國吉清尚 4点等 合わせて約80点


観覧料 一般500円 高・大学生300円 小・中学生200円
(常設展もご覧いただけます)


民芸陶器古琉球陶器

 
『古琉球と民芸の接点』 児玉美術館理事長 児玉利武

この度古琉球焼と明治以後衰退していた沖縄の陶芸界に大きな活力を与えた民芸『民衆的工芸』の陶芸作家とそれに共感した沖縄の若い陶芸家達の作品など約80点を一堂に展示した。

琉球は古くから周辺の諸国と広く交易を営み、文化の繁栄した海洋国家だった。

琉球では先史時代の土器(縄文・弥生)は約6000年前に作られ、当初から九州の影響を受けていた。

浦添貝塚から約2500年前(縄文後期)の薩摩の市来式土器が出土しているので、その関係は明白である。それらの土器は8〜9世紀頃まで使用されていた。

その後12世紀のグシク時代にもたらされた朝鮮、日本の須恵器、中国の陶磁器、東南アジアの南蛮陶器などが使用されるようになった。

琉球本島では精選した土をロクロ成形した硬質の琉球土器が平行して焼かれるようになり、16世紀頃まで続いた。

また離島の宮古、八重山ではそれぞれ異なる土器が作られた。

宮古式土器は13世紀頃から焼かれていたが、15〜16世紀になって本島の技法がとり入れられた。

南支、ベトナム、タイなど南方の影響を受けたパナリ焼土器は八重山諸島の新城島で16世紀初期から焼かれ、19世紀中期頃まで続いた。

14〜16世紀にかけての大交易時代を迎えた琉球王国は中国、東南アジア、日本の中心に位置する有利性を生かして多くの文物を集め、また他国へ送り、琉球に膨大な富をもたらした。

1609年島津家久が琉球を侵略し、薩摩の支配下に置かれた。その際奄美大島は薩摩に割譲された。

1616年(17世紀初頭)朝鮮陶工の張一六、安一官、安三官の3名が薩摩から送られた。中でも一六は帰化して仲地麗伸と名乗り、灰釉と焼締めの技法を伝えて、琉球の陶芸に多大な功績を残した。

また一官と二官は薩摩に帰る途中に種子島に立ち寄り、能野焼(よきのやき)に影響を与えたと伝えられている。

1670年(17世紀後期)平田典通は中国に派遣され、赤絵の技法を習得した。

1682年王府の命により、古窯の喜名、知花、宝口、涌田窯などの陶工を牧志に統合した。これが壺屋の起源である。

壺屋焼は上焼(じょうやき)と荒焼(あらやき)に大別される。上焼には1200度で焼く施釉陶器の涌田焼や古我知焼、荒焼には1100度で焼く無釉の喜名、知花焼(ちばなやき)の技法が生かされた。

1730年(18世紀前期)仲村渠致元 (なかんだかり・ちげん)は薩摩の竪野窯と苗代川窯で築窯、土合わせ、薬合わせ、木灰など多くの陶技を学び、壺屋上焼の確立に貢献した。

廃藩置県により壺屋も官窯的な窯から民間の窯へと変化していった。

明治の中頃になると本土から多くの陶磁器商人が沖縄に進出してきた。

これらの商人達によって安価で丈夫な本土の陶磁器が多量に持ち込まれ、上焼は日用雑器の地位を次第に奪われていった。

大正時代に入ると陶磁器商人達がデザインを考え、困窮する陶工に制作を依頼した。それが琉球古典焼、島南蛮と呼ばれている。

大正14年『用の美』を大切にする柳宗悦の主張に、強く共鳴した二人の陶芸家河井寛次郎と浜田庄司が民芸『民衆的工芸』運動を起した。

そして日本各地の衰退しつつあった窯を巡歴し、調査、保存、再評価に努め、その素晴らしさを世に発表した。

柳宗悦をはじめとする日本民芸協会のメンバーは大正末期から昭和15年までしばしば壺屋を訪れ、調査、収集、制作などを行なった。

民芸運動は戦前、戦後を通して沖縄を県外に紹介するだけでなく、沖縄文化に対する援助者でもあった。

彼らは壺屋が本土の陶磁器商人の強い影響を受けながらも、伝統的作陶技術で生産を続けていることに大きな感銘を受けた。

陶工達も民芸という面から高い評価を受けたことで自信と誇りを取り戻した。

中でも壺屋三人男と称される金城次郎、新垣栄三郎、小橋川永昌などの若い陶工達は強く共感し、民芸的見地から壺屋の再興に力を注いだ。そして琉球焼を全国に発信し、名声を博した。金城次郎は1985年人間国宝に認定された。

彼らに次ぐ陶芸家の一人、國吉清尚は琉球焼の素朴さを超えて前衛陶芸の世界に足を踏み入れたが、志半ばにして1999年55歳で自らの命を絶った。

我が国では民芸運動以来、広い視野を持ち確かな思想に裏付けられた、芸術の根幹に触れるような運動を知らない。

宮古式土器

宮古式土器
焼締人物文瓶
焼締人物文瓶
パナリ焼壷
パナリ焼壷
色絵菊唐草文碗
色絵菊唐草文碗
國吉清尚壺
國吉清尚壺
 

『古琉球と民芸の接点』作品解説

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