2018.5.15(火) - 7.16(月) 『アトリエの行者・木下貴雄の素描と図案展

新緑のまぶしい季節になりました。

木下貴雄は、宮崎県小林市に生まれました。当時の甲南高校の鮫島梓先生に指導を受けるために、甲南高校に入学しました。芸大を目指しましたが、望みはかなわず東京でひたすら画業に人生を捧げ、61歳で逝去しました。生涯、生活のために絵を売ることを拒み、生きるために絵を描き続けた木下の生き様を、彼の遺した作品達が静かに語りかけます。

川辺の家」「カフェにてミサ」「出を待つ役者」他約40点

観覧料   一般500円 高・大学生300円 小・中学生200円(15名以上割引有)
         (常設展も併せてご覧いただけます)


            自画像

 アトリエの行者 木下貴雄の素描と図案展に寄せて 理事長 児玉利武

 青空の下に丸太の垣根に背をもたれ、帽子をかぶり笑みを浮かべた木下貴雄と、不安げな友人の山下三千夫・山路清美、3人の人物が写った一枚の写真があります。背景には秋草の茂る原っぱと田畑が広がり、遠くに雄大な阿蘇の外輪山が連なっています。

 これは末期癌の診断を受けて、故郷の小林市に帰省した木下が、姉に会い墓参を済ませた帰りに、スケッチ旅行を楽しんだ時のものです。それから2ケ月後の2003年11月23日、彼は61歳の生涯を閉じました。

 この度、当美術館では木下貴雄没後15年を記念して『アトリエの行者 木下貴雄の素描と図案展』を開催することになりました。当館の収蔵する作品の中から木下が最も得意とするデッサンとデザイン約40点を選んで展示いたします。

 彼の人生は世の幸運に恵まれず、赤貧に甘んじて只ひたすら絵を描き続け、壮烈極まりない一途な生涯でした。正しく画に殉じたと云っても過言ではないでしょう。

 木下は1942年小林市に生まれ、小林中学を経て1958年甲南高校に進学し、美術部に入部しました。当時の甲南高校美術部は芸大出身の教師、鮫島梓先生の指導を受けて、県を代表する多くの画家を輩出していました。当館の主たる収蔵作家である大嵩禮造もその一人です。入部した木下は登校するとそのまま美術教室に直行して石膏像のデッサンに没頭し、又鹿児島市立美術館で行われる裸婦デッサン会にも参加していました。

 木下は忽ち頭角を現し、1959年(高2)宮崎県美展で小林市長賞を受賞、同年南日美展知事賞を受賞した大嵩と一緒に両県を代表して、久留米の石橋美術館で開催された第三回西日本洋画新人秀作展に招待出品しました。卒業後、東京芸大への挑戦を試みましたがその願いは叶いませんでした。

 その後数年間、彼は高度経済成長の波に乗って、デパートや大型家具店の売り場主任としてレイアウトやデザインを手掛け、安定した生活を送っていましたが、1972年に東京国立市へ転居して、原点に帰り、絵画の道一筋に進むことを決意しました。

 国立市の『火曜会』や国分寺市の『木曜会』のクロッキー(速写)グループに参加して幹事を務め、プロモデル、踊り子、外国人などを招いて裸体デッサンをしたり、野外のスケッチに出かけたりしました。

 1986年からは鹿児島出身の俳優、田口精一の紹介で劇団民芸の絵画部『民芸の仲間』に参加し、描いた役者のデッサンを沢山残しています。

 木下は生活費に困ると、土木作業や、都の清掃車に乗って食費や絵の具代を稼いでいました。それを見兼ねた友人達の世話で個展を数回開いていますが、「絵は食うためだけじゃない、生きるために描くのだ」を信条とする彼は意図的に絵を手放すことはありませんでした。

 彼が何処に住み、どのような生活を送り、どんな絵を描いているかを知る人は少なかったようです。

 逝去後、国立の古い木造アパートの6畳一間には、3000点余りの絵がベッドの下や周囲に足の踏み場も無い程うず高く積み上げられ、彼の生き様が鮮明に記されていました。その確かな素描力に裏付けられた作品は、鑑賞する人の心を打ち、深い感動を与えました。

 今回の展覧会に際しましては、山下三千夫が画家として、また木下の友人として作品を選び展示しています。

 木下貴雄 作品の紹介

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