2017.9.1(金) - 10.29(日) 『古薩摩と古琉球展

 14世紀から16世紀にかけて、大交易時代、中国・東南アジア・日本の中心に位置する琉球王国は、貿易の中継地として多くの文物が集まり、特に陶磁器は目を見張るものがありました。17世紀初頭島津氏により薩摩藩の支配下に置かれたこともあり、薩摩焼と古琉球焼、また途中に位置する種子島の能野焼は密接な関係にあります。今回はそれぞれの時代の優れた作品を展示し、その関わりや影響を探ります。

古薩摩焼 高台付小壺(能野焼)白磁筒形花瓶(平佐焼)黒釉龍文甘酒半胴(苗代川系)白薩摩唐獅子(堅野系)芳工赤瓢形徳利(龍門司系)蛇蝎釉肩衝壺(西餅田系) 弥生式土器(北麓弥生遺跡出土)など約50点

古琉球焼 琉球土器((琉球本島・宮古島・八重山)色絵菊唐草文碗(壺屋)褐釉碗(湧田)灰釉碗(古我知)焼締人物文瓶(壺屋)縞文茶家(壺屋)褐釉台付瓶子(壺屋)など約50点

観覧料 一般500円 高・大学生300円 小・中学生200円
      (常設展も併せてご覧いただけます)

色絵唐草文椀色絵唐草文椀(壷屋)

展示風景能野

 古薩摩と古琉球焼展に寄せて 理事長 児玉利武

 琉球は古くから周辺諸国と広く交易を営み、文化の繁栄した海洋国家です。

琉球の先史時代の土器は、近年(2013年)南城市のサキタリ洞遺跡から約9000年前の押し引文土器が発見されて、大きく遡ることになりました。

浦添貝塚からは約3500年前(縄文後期)の薩摩の市来式土器が出土し、又約1800年前(弥生後期、卑弥呼の時代)の球磨川流域を中心とする免田式土器が出土しているので、その関係は明白です。それらの土器は8〜9世紀頃まで使用されていました。

 その後、琉球本島では精選した土をロクロ成形した硬質の琉球土器が焼かれ、16世紀頃まで続いたのです。また宮古、八重山諸島ではそれぞれ異なる土器が作られていました。中でもパナリ焼土器は南方の影響を受けて、八重山諸島の最南端の離島(新城島)で16〜19世紀中期まで焼かれていた逞しく素朴な土器です。

 薩摩古陶器は16世紀末の文禄、慶長の役に朝鮮から連れて来られた陶工達によって創められました。優美華麗な白薩摩焼と質実剛健な黒薩摩焼に大別されます。白物(しろもん)は藩主好みの茶陶などの上手物、黒物(くろもん)は庶民的な日用雑器が作られました。

それらは堅野系、苗代川系、龍門司系薩摩焼として脈々と現代に継承されています。すでに廃窯になっている蛇蝎釉の西餅田窯、焼締めの能野焼、磁器の平佐焼は薩摩古陶器に豊かな彩りを添えています。

 1609年 島津家久が琉球国を侵略し、薩摩の支配下に置きました。     

1616年 尚寧王の招きにより、苗代川の朝鮮陶工・張一六、安一官、安三官の3名が薩摩から送られ、湧田に屋敷を拝領しました。中でも一六は帰化して仲地麗伸と名乗り、灰釉と焼締めの技法を伝えて、琉球の陶芸に多大な功績を残しました。また一官と三官は薩摩に帰る途中に種子島に立ち寄り、能野焼に影響を与えたと伝えられています。

 1670年 平田典通は中国に派遣され、赤絵の技法を習得して帰り、首里城の再建に中心的働きをしました。

1682年 琉球王府の命により、古窯の喜名、知花、宝口、湧田窯などの陶工達は牧志に統合されました。これが壺屋の起源です。          

壺屋焼は上焼と荒焼に大別されます。上焼には施釉陶器の湧田焼の技法、荒焼には釉薬のない無釉の喜名、知花焼の技法が生かされました。

 1730年(18世紀前期)琉球から薩摩に派遣された、仲村渠致元は堅野窯と苗代川窯で築窯、土合わせ、薬合わせ、木灰釉など多くの陶技を学んで帰り、壺屋上焼の確立に大いに貢献した。琉球焼中興の祖と称されています。

 この様に先史時代から近代に至るまで、薩摩と琉球の陶芸の交流の歴史は極めて深いものがあります。

 古薩摩と古琉球焼 作品の紹介

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